マルジェラが語る“マルタン・マルジェラ”
2021.09.22.
Posted on 09.22.21
先日のお休みはシネリーブルで映画を観てきました。
『マルジェラが語る“マルタン・マルジェラ”』
あのマルタン・マルジェラ本人が語っているドキュメンタリー映画ということで、公開を楽しみにしていました。
本人が映る映像は手元のみ。
“匿名性”を持つことで、自身は街で注目されることもなく落ち着いた日常を送ることができ、人々にはブランド名を聞いてデザイナーの顔を思い浮かべるのではなく、洋服そのものを連想させることができます。
マルタンの語り方は、とても自然でした。
「マルジェラの再構築は、メッセージ性ではなく解剖」みたいな言葉はとても印象に残りましたが、それは関係者によるコメントで、そういった文字を踊らせたようなカッコイイ言葉はマルタンの口からは間違っても出てきませんでした。
挿入される音楽や映像的な加工は、ドキュメンタリー作品を観やすくする為のものなのだと思いますが、そういう演出はマルジェラっぽくないですし、個人的にはちょっと邪魔に感じてしまいました。
せっかくマルタン本人が語ってくれてるのだから、その言葉をもっと実直でリアルに肌感で感じたかったです。
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マルタンの作る洋服には、どこか退廃的な精神を感じます。
最後の方でマルジェラのアーカイヴ展の様子が紹介されていましたが、そこにリック・オウエンスの姿もありました。
リックの作る洋服は、退廃とエレガンスが融合したスタイルで、自分がもう少し若かりし頃は夢中になって買っていましたが、今ならマルタンの精神の奥底に潜んでるような退廃性の方がやはり自分は好きだなと思います。(もちろん当時のマルジェラもそれなりに買っていたのですが)
マルタンのような精神性を持つデザイナーでは、今の商業主義に偏ったモード界ではとても続けていくことができなかったでしょう。
作中で、今大流行している“タビブーツ”についても説明している(語るではない)シーンがありましたが、マルジェラ本人がもし今もブランドに残り自らが新作の展示会場にいたら、タビブーツばかりオーダーをつけるようなバイヤーは払いのけててもおかしくなかったと思います。
「何もわかっていない」と。
それくらい、“メゾン・マルタン・マルジェラ”の精神と今の“メゾン・マルジェラ”では、乖離しています。
モードという言葉は、今の時代とても多様的に使われるようになりましたが、モードの本質というものはとても難しいものです。
例えば、映画においても、ハリウッド系の映画観る人よりフランス映画を観る人の方がここ日本においては数が少ないと思います。
フランス映画は、気難しく、結末の解釈も観るものに委ねるという作りをしているものが多いです。
結末だけではなく、作品自体の理解力を深めようと思ったら、観る側の知識や教養も問われます。
(僕もいつも自分の知識不足を嘆きながら観ているのですが)
マルタンの作る洋服も同じで、そのターゲットは“知的な女性”でした。
自分も少し前のまでは、マルタンのようなデザイナーの新作コレクションは毎シーズン楽しみにしていました。
知性のあるデザイナーが、今の時代をどう捉えて、どのように服で表現してくるのか。
「この服がカッコイイ」というよりは、デザイナーが服で表現する生き方や考え方により興味があるわけです。
それがモードの面白さでした。
今のモード界を思えば、マルタンが引退したタイミングも完璧でした。
そういう生き方をする(ができる)デザイナーだからこそ、彼の作った洋服は今見てもその輝きを失わず、その精神は今のファッション界にも大きな影響を与え続けているのだと思います。
マルタンが語るというなら、これからもチェックしますが、個人的には最後まで語らなくても良かったのではないかとも思います。
マルタン最高!